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高齢のためステント治療を断られた父の選択
   
   

 

患者家族・長野県 2004年寄稿

2004 弓部大動脈全置換手術

私の父の病であります『胸部大動脈瘤疾患』についてお話します。
手術は今年の5月、川崎幸病院にて、約七時間の手術が無事成功致しました。
現在通常の日常生活に戻れるような状態になっています。
今回の手術にこぎつけるまでに、又手術から現在に至るまで、本人はもとより手術にあたった医師、看護士、栄養士、リハビリの皆々様、それに家族の協力があってこそ、現在の父が生存しているということをつくづく感じます。

父は現在84才。
終戦を南方の島トラック諸島のモートロック島で迎え、復員して企業を起こし、小企業ながら二つの事業を手がけています。
耳は遠くなりましたが、これまで仕事をつづけていました。
年齢84歳と言えば超高齢者になります。
父は76才の時『腹部大動脈瘤破裂』で生死をさまよいましたが、執刀医の先生のおかげで生還できました。
本人が今回の『胸部動脈瘤』手術を切望するにつき、前回破裂したからこそ、この手術を決意したといっていました。

この破裂した時のエピソードを話したいと思います。
『腹部動脈瘤』が破裂したのは、地元の脳外科病院を退院した日でした。
一週間程前、意識が一時的に不覚になり、脳梗塞ではないかと心配になってそのまま入院させてもらいました。
その入院中も腰から腹にかけて痛いと医師に訴えていました。
この脳外科病院の入院の前にも地元では大きな市立病院の内科医に『そこ』の痛を訴えて精密検査をしてもらいました。
でも、異常がないと言われました。
動脈瘤は一般的に痛みがないと言われますが、父は時々腰から腹にかけての痛を訴えていました。
話は破裂した日に戻ります。
昼頃退院しましたが、そこの痛みは収まりません。
父は接骨院に行きました。
でも接骨院では、「接骨医のやる処置ではない。」と病院に行くことを勧めました。
内科では異常がないと言っているし、もう行き場がなかったわけです。
父はその日ちょっとしたことでも神経質なくらい怒りっぽくなっていました。
そして、その夜、食事中に破裂しました。
ショック状態でした。
救急車で今日まで入院していた脳外科の病院に搬送してもらいました。
当直していた医師の好判断で市立病院に連絡を取り、転送してもらったわけです。
運よく、破裂したらまず助かる見込みのない大動脈瘤手術から生還できました。

その後、今から三年前の春の検診で、こんどは『胸部大動脈瘤』が見つかりました。
担当医の先生に「この手術は腹部動脈瘤のようなわけにはいかない。手術は出来ない。」と言われました。
父は腹部動脈瘤の手術を受けてから、全国紙の医療最前線という特集記事を読んでいて、その中で動脈瘤を取り上げた記事を折にふれて見せてくれました。
「動脈瘤手術でも手術創が小さく、数日で退院できるんだ。」と。
それは『ステント』を使った手術方法です。
わたしもそんな簡便な手術方法で出来ればと期待しました。
父は破裂した緊急手術と同じ人工血管置換手術を避けたい、二度と同じ苦しみを味わいたくないと思っていたわけです。
父はそのステント治療を主治医に相談したところ、快く紹介状を書いて下さいました。
翌日レントゲン写真をタスキ掛けにして、母を伴ってステント治療で最も有名な東京の医科大学へ行きました。
特集記事に載っていた医大のステント治療の権威の先生に診察してもらい後日入院することになりました。
医大には2週間程検査入院をしました。
病院側から説明があるとのことで、私は母といっしょに同行しました。
父がロビー迄迎えに来てくれていました。
とても元気で、2週間の検査は退屈だったと言っていました。
3時に先生方の説明があるということで、医大の一室に案内されました。
2人の若い先生が教壇の椅子に両側にすわり、もう1人の中年の先生が教壇に立って、胸部大動脈瘤疾患の部位の状態を描き、説明してくれました。
「あなたの場合は、動脈瘤が『弓部』の部位にできており、又、脳の動脈瘤にステントを入れることは、脳の動脈を塞ぐことになり治療できない。」ということでした。
つまり、診察の結果は、ステント治療は出来ないということでした。
ステント治療を行なうに必要な条件を満たしていないという理由でした。
その瞬間、私は全身の血が引く思いがしました。
両親も共にうなだれました。
その先生は「弓部の部位をそっくり人工血管に置換する方法もある。」といってくれました。
私は、(父が胸部大動脈瘤のために2週間も検査入院していたわけだから)「当病院でやってもらえないでしょうか」との問いに、その先生は「置換手術は当病院でなくても、小沢さんの住でいる近くの病院でやってもらった方が良い。」との返事でした。
「長野県でどこか出来る病院がありますか。」の問いに『沈黙』。
矢継早に、「遠くてもいいんです。この医大でやっていただけませんか」との問いに「小澤さんの場合は高齢ですし。」「高齢ではダメなんですか。」との強い口調に対して、「まあ、そう言うことで。」との返事でした。
もうこれ以上質問を発することはできませんでした。
父の最期の望みは絶たれました。
3人共ガックリと肩を落としました。
父が上京して入院する際タスキ掛けにして持ってきたレントゲンと、医大でのレントゲンを借りて足早に立ち去りました。
バスで帰郷する際、夕食をどこかおいしいところでもと思っていましたが、そんな気にもなれず、タクシーで新宿に着くや高速バスに飛び乗りました。
帰郷バスの中では本人に掛ける言葉がありませんでした。
 
翌日から父は、自分の葬儀の心配をし始めました。
以前からこういう動脈瘤の病気でしたから、もしやということで手配はしておりましたが、今回はより具体的です。
私もその日から『なんとかしなくては』と仕事が一段落すると常にそのことが頭から離れません。
私は仕事の関係上、人様にいろいろな話を聞けますが、何分そんなにある病気ででもありませんし・・・・・。
その日の夜自宅のパソコンで、インターネット検索を始めました。
接続会社の検索で『胸部大動脈瘤』で検索しました。
かなり多くのホームページのURLがでてきました。
その中で順天堂大学附属病院のホームページが目に止まりました。
『この病院にこのわざあり』人工血管を持っている山本講師の写真。
進んでクリックしながら読んでいくと『昨年でいうと胸部大動脈瘤に限ると57例の好成績を挙げている。しかも術中死亡はゼロ』。そのスクリーンの文面を食入るようにみました。
また何度も読み返しました。
『コレだ。ありがたい。』その日一言。
その時希望が確実に自分の中に持てました。
翌日父に印刷して見せました。
父は「この病院に行きたい。すぐ手続きをとってほしい。」と。
早速、順天堂医大学附属病院に問い合わせたところ「山本晋先生は今この病院にいない。」とのこと。
「どこの病院ですか、是非教えていただきたい。」と数分後「川崎幸病院です。」との返事。
早速川崎幸病院に電話する。
「胸部外科の山本晋先生はお宅の病院にいらっしゃいますか。」
「はい。山本晋先生ですね。いますよ。」との返事。
『ああ。捜しあてた』と、胸をなでおろしました。
早速『川崎幸病院』のホームページを開きます。
ホームページの『私どもの特色』の中で「高齢者又臓器合併症を合わせ持つ重症症例を積極的に扱い、良好な成績を上げている。」『治療目的と治療対象』の中で「年齢に関しては、手術を制限する因子とは考えず、日常生活に問題ない方に対しては家族・本人の希望により、年齢の如何にかかわらず手術を行なっています。」との文面に『この病院でなら手術をやってもらえる』という確信がもてました。
 
川崎幸病院の外来では予約を心よく受けていただきました。
川崎に行くには高速バスと電車を乗り継いで5時間。
年寄りには一晩泊まりになる大変な長旅です。
それでも本人は気にもとめません。
高速バスの中で昼食をとりましたが、その病院で手術を受託してくれるとの期待から、どこかへピクニックでも行くような揚々な気分でした。
その翌日、診察の前に一通りの検査をしました。
その後、インターネットで見た山本晋先生に診察を受けることができました。
『大動脈外科』と書かれたドアを開けました。
私共3人は緊張した面持ちで、差し出された椅子に座りました。
先生には長旅のねぎらいの言葉を掛けてもらい、又同郷の看護婦さんまで同席していただきました。
お気持ちが大変嬉しかったです。
先生からは当病院に来るまでの経緯を聞かれました。
私と母で、胸部大動脈瘤が破裂して何ら治療できず死に到るまで、又これからいつ破裂するかわからない状態で死を待つことは、本人は精神的にまともにいられない、又家族も、とても見ていられない、本人は前に『腹部動脈瘤で破裂し、同じ部位の待機手術迄経験したが故に、是非手術をお願いした事』を話しました。
先生は、患者本人の『弓部の瘤』の状態を詳しく話され、ステント治療と手術の違い、動脈瘤手術の目的、年齢制限等を話されました。
そして手術に対して「たとえば、箱職人が毎日同じ箱を作ること。それと同じことをやっているだけのこと。」と言われました。
もちろん手術を快諾いただきました。
手術日は5月連休明けに決まりました。
執刀方法は手術前に決め説明していただくとのことでした。
手術前の心臓カテーテル検査は、郷里でやってもらえるよう紹介状を書いていただきました。
手術前の本人のいろんな負担を病院側が考えての配慮に感謝しました。
 
川崎から帰って、来るべき手術に向かって先生から説明を受けた『大動脈手術・心臓外科手術に関するご案内』を夫婦で何回も読み合わせをしていました。
又父は診断で肺機能の低下を指摘され、機能回復に効果的な『トリフローU』を毎日時間があればやっていました。
それは大変熱心でした。
私も『手術に関するご案内』やトリフローUの説明書から肺機能の効果を高めることが手術後にいかに重要でそのことが重くのしかっかてくるか、又早期回復につながるかということを何度も言い聞かせました。
地方の市立病院で手術前の心臓カテーテル検査をした時、母から聞いた話ですが、その検査をした循環器の先生から、手術には問題はないと言われました。
でもこうも先生は母に言ったそうです。
「もし自分の親だったら手術は考えたかもしれない。手術をする以上頑張りなさい。」と、その言葉を聞いて、この手術の酷しさを更に新たにしました。

父は毎日手術の日が待ち遠しくて仕方がないようです。
後2ヶ月待たなければならないわけです。
「早く手術してもらいたい。」「何とかならないのか。」と、破裂するかもしれない恐怖の毎日、本人にとっては当然の気持ちです。
毎日接している母にはそのことが身にしみてわかっているわけです。
山本先生が「待機手術の患者で、今まで破裂した方は、ほとんどいない。」と言ってくれました。
破裂したことがある患者にとっては、どこまで納得出来たか疑問ですが、私共は胸部大動脈瘤・胸腹部大動脈瘤、それより難しい急性大動脈解離手術をやってきた先生だから、そんな気にはしませんでしたが。
待たされたと言えば手術予定日が『手術室』の改装で延期され、手術当日延期され、本人はかなり気落ちしました。
でも皆様の支えでここまで来れたと思ったとき、父の前に1人助かる人がいると思うと何か気持ちが落ち着きます。
父もすぐに気持ちを入れ替えたみたいでした。

入院後、山本先生が病室に来られました。
私は先生に手術方法を質問しました。
この手術法の場合、弓部大動脈人工血管置換に際し心臓を一時停止させ、人工心肺を取り付ける。
体温を18度に下げ脳に行く3本の血管に血液を流さなくてもいい状態で60分以内に吻合を終える。
父の場合は高齢だからと心配しましたが、一瞬とまどいながら『動脈瘤の部位が100パーセント取れる。もう瘤の心配がなくなる。ありがたい。うれしい。』という判断が頭をよぎり「ハイ、お願いします。」と返事をしたことを覚えています。

3階の南病棟の自分のベッドで手術前の準備をし、最後に肺塞栓症を避けるために医療用のガーターストッキングをはきました。
午前11時、先生の都合で2時間遅れて患者本人が手術室に入ります。
本人は白のストッキングをはいて微笑みながら、しかも歩い手術室に向かいました。
『ちょっと普通の病院と違うな。』と思いつつ、ふと先生の言った言葉「退院する時は入院してきた時と同じように自分の足で歩いて帰れるように。」を思い起こしました。
父が、にこにこしながら手術室の中へ入って行きました。
「行ってくるよ。」と手を振って。
「頑張るように。」と家族4人が言い返しました。
そして、冒頭にも述べたように、今、父は元気に生活しています。